競い合うことは悪ですか
現在の学校現場では、順位をつけることはいけないそうです。差別やいじめを助長するというのがその理由です。
どこの小学校でも、運動会の「かけっこ」は同じ走力の子供同士で組を作ります。大きな差が見えないようにする配慮です。中には、手をつないでゴールさせる学校もあります。文化発表会の劇でも、クラス全員が平等にせりふを割り当てられ、「主役」はいなくなってしまいました。卒業式の答辞も卒業生全員で行うのが主流です。
中学校では、かつてどこの学校でも見られた成績上位者の発表は姿を消し、順位すら公表しないところもあります。それどころか、定期テストそのものを廃止してしまった学校も少なくありません。
人間や社会の進歩のためには健全な競争が不可欠なことは歴史が証明しています。ところが学校現場では妙な「平等感」が幅を利かし、子供たちの活力や意欲を失わせているのです。それだけではありません。「いじめ」をなくすためのこれらの方策が、かえって「いじめ」を助長しているということに気が付いていないのです。
現在の「いじめ」は、「他人と違うこと」が原因と言われています。他人より行動が遅い、他人より髪の毛が茶色い、他人より太っている、他人より忘れ物が多い……。そればかりか、他人より成績がよい、他人より異性に人気がある、ということさえもいじめの原因になります。子供は大量生産で作られる品物ではありません。一人ひとりが、他人と違うのは当たり前のことです。それなのに学校が「みんな同じ・平等」の指導をするため、かえって違いが目立つことになり、「いじめ」につながるという皮肉な結果を生んでいます。厳然と存在する個性の違いを運動会の「かけっこ」のように隠すという姑息な手段を採ることが、子供社会を不自然にゆがめ、いじめを助長し、子供の活力を奪っているのです。
競うことは人間が持っている本能の一つです。もちろん、それぞれが本能のままに生きたのでは社会生活は成り立ちません。それを理性で抑制することが必要であり、それを教え、身に付けさせるのが「教育」本来の役割です。今の学校ではその役割を放棄し、競い合いを否定することによって無気力で努力をしない人間を作っているとしか思えません。
かつて、今と違って子供の数が多かった時代には生活の中に競争があふれていました。子供たちは遊びを通して、あるいは家庭の中で、自然と競い合い競争意識を育てることができました。しかし、現在の少子化の中ではそうはいきません。遊びは「一人遊び」が主流となり、それも何度でもリセットが可能な「ゲーム」が中心です。当然、忍耐力がなく対人関係が苦手で、すぐに人を傷つけ、すぐに傷つく、ひ弱な人間が多くなります。これが、「いじめ」の根本的原因です。
「健全な競争」の場を子供たちにもっともっと提供すべきです。子供たちが活き活きと、そして堂々と競い合い、勝者を称え、敗者の健闘にも惜しみない拍手をする。そんな環境が子供の努力を育て、人格を向上させていくのだと声を大にして訴えたいと思います。
小学校の頃、クラス対抗リレーの選手に選ばれて嬉しかったこと、暗くなるまで校庭でバトンパスの練習をしたこと、スタート前にすごく緊張したこと、優勝して感激したこと、転んで悔し涙を流したこと……。
お父さん、お母さん、そんな経験はありませんか。そして、それを大切な財産として懐かしく思い出すことはありませんか。
- by 学志舎
- at 2007年06月12日
