子供の人権

 

これまで子供に対する対応、教育環境についてお話してきましたが、最後に「子供の人権」について考えてみたいと思います。

 

最近、少年法の改正が議論になり、その中で「子供の人権」という言葉を何度も耳にしました。ご存知のように、人権思想は絶対神(創造主)が人間を造ったというキリスト教社会で生まれました。神から全ての人間が与えられた「人としての権利」、それが人権です。ですから、人権には差がなく、大人も子供も男女も関係なく等しく所有しているものです。

 

こう考えてみると、「子供の人権」という言葉の使い方が間違っていることが分かります。ある特定の人、階層にだけ与えられている権利、それは「特権」と呼ぶべきものです。

 

なぜ、こんな話を始めたかと言いますと、「子供の自主性」「ゆとりの教育」「学校での悪平等」すべての根底に大人の子供に対する遠慮、もっと言えば腫れ物に触るような姿勢が感じられるからです。

 

どうも私たち大人は、子供の特権を無原則に認めすぎているのではないかという疑問を拭い去れないのです。

 

教育においては2つの視線のバランスが大切です。それは「教育を受ける側の子供の視線」と、「教育を施す側の大人の視線」です。

 

経済の急成長による豊かさの中にどっぷりとつかり、「ゆとりの教育」が始まった1970年代以降、前者に力点が置かれ、子供たちに迎合する方向へ進みすぎていると思えるのです。教育とは本来、教育をする側から見れば、国造り、社会造りの基礎、子供にとっては鍛錬、修養として、辛いことでも続ける、続けさせる根気と力強さが必要です。教育をする側、つまり我々大人が、「自主性」「ゆとり」「子供の人権」等の美辞麗句を連ねることでそこから逃げているとしたら、子供たちにとっても将来の日本にとっても不幸なことです。

 

子供は腫れ物ではありません。磨けば光る宝です。しかし、磨く道具が「やわ」では宝も光るようにはなりません。お父さん、お母さん、ふわふわした綿ではなく、絹の心で子供に接してください。